
マックス・モズレー、プライバシー保護の活動家で元モータースポーツ界のボス、81歳で死去
元F1のボス、バーニー・エクレストンは「兄弟を亡くしたようなものだ」と述べた。
癌を患っていたモズレーは、1993年から2009年までモータースポーツの統括団体であるFIAを率いた。
また、彼がナチスをテーマにした乱交パーティに参加したとする記事を「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」紙が不当に掲載した際には、6万ポンド(933万6,000円*)の損害賠償を勝ち取りており、報道規制の強化を訴えていた。
モズレーはFIA会長として、1994年のアイルトン・セナの死を受けて、F1の安全性に関する広範な改革を行った。
エクレストンは「彼はモータースポーツだけでなく(自動車)業界にとっても多くのよいことをした。彼は人々に安全なマシンを作らせるのが非常にうまかった」と述べた。
現在のFIA会長であるジャン・トッドは、このニュースに「深い悲しみ」を覚えているとツイートし、モズレーは「サーキットや道路での安全性の強化に大きく貢献した」と付け加えた。
一方、F1のスポークスマンは、モズレーを「F1の変遷における偉大な人物」と評した。

プライバシー保護の活動
1930年代のイギリスファシスト指導者サー・オズワルド・モズレーの息子であるマックス・モズレーは、2008年に日曜版タブロイド紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」の記事をめぐり、プライバシー保護のための訴訟を起こした。
同紙は、モズレーが5人の売春婦と一緒にいるところを密かに撮影し、その後一面トップ記事として掲載した。<画像36枚>
裁判官は、ナチスをテーマにしたセックスパーティが行われていたという主張には意味がないと判断し、彼のプライバシーが侵害されたと認めた。また、高等裁判所は、この記事は公共の利益にならないと判断した。
マックス・モズレーは損害賠償を受けとったが、彼の性的嗜好の詳細は誰もが知るところとなり、金銭だけでは自身の評判を回復することはできないと主張した。
その後、彼は有名人のプライバシーに関する法律の改正を求め、2011年には、新聞社が人々の私生活を公開する前に警告を行うよう求めた。
これをきっかけにモズレーは、一族の財産を使って、新聞業界の電話ハッキング事件の被害者を支援するようになった。
また、2009年に亡くなった息子のアレクサンダーを偲んで設立した家族の慈善団体を通じ、独立報道規制機関 "Impress"(インプレス) を支援した。
マックス・モズレーは2011年に、自身の記事がアレクサンダーに「非常に悪い影響」を与えたと語った。アレクサンダーは、非依存性薬物乱用が原因で死亡したと判断された。
インプレス社の最高経営責任者であるエド・プロクターは、モズレーが報道機関の不正行為の被害者のために司法へのアクセスを改善し、「これらの問題が忘れ去られないようにするための取り組みに、自らの資産を投入した」と述べた。
電話ハッキング事件を受けて設立された "Hacked Off" は、モズレーの「勇気と寛大さのおかげで、より倫理的な報道を求める運動が今日も効果的に行われている」と述べた。
また、電話ハッキングの被害者を弁護したメディア弁護士のマーク・スティーブンスは、モズレーを「現代のプライバシー法の事実上の生みの親」と表現した。

「目のくらむような知性を持つ威圧的な人間」
マックス・モズレーは、過去半世紀のモータースポーツ界で最も影響力のある重要人物のひとりであると同時に、最も物議を醸した人物のひとりでもある。
卓越した知性と、時には悪意のある心を持つ彼は、政治家としてのキャリアに適していたと言えるだろう。
しかし、彼は1930年代の英国ファシストのリーダー、オズワルド・モズレー卿の息子であり、若い頃は父の戦後の政党「ユニオン・ムーブメント」に参加していた。モズレーは、自分の経歴から国会議員になることができないことを悟り、モータースポーツに関心を向けた。
マックス・モズレーは、興味深く矛盾に満ちた人物であった。洗練され魅力的な彼は、ひとりの人間として人を惹きつけた。
しかし、誰もがこの人物に好意的なわけではなかった。モズレーには執念深いところがあった。モズレーの政治的、法的能力は広く賞賛されていたが、誰もが彼を簡単に好きになれるわけではなかった。
1940年4月13日にロンドンで生まれたマックス・モズレーは、オックスフォード大学クライスト・チャーチで物理学を学び、その後、法律に転向して法廷弁護士となった。
1960年代後半にレーシングドライバーとして短期間F2に参戦した後、1970年にロビン・ハード、アラン・リース、グラハム・コーカーとともに、レーシングカー・コンストラクターのマーチを設立した。マーチは、彼らの苗字のイニシャルから命名された。
マーチは1970年にF1で3勝を挙げ、その後は他のモータースポーツにも進出した。1977年末、モズレーはモータースポーツでの政治活動にフルタイムで取り組むためにマーチを去った。
マックス・モズレーは、FOCA(フォーミュラワン・コンストラクターズ・アソシエーション)でバーニー・エクレストンと手を組み、1980年と1981年に当時FISAと呼ばれていた統括団体との間でF1の主導権をめぐる激しい政治戦争を繰り広げた。
この論争は、いわゆるコンコルド協定で最終的に決着した。この協定は、後にF1と改称されるFOCAが商業権を持ち、FISAが規約管理をするという、今日まで続いているF1の構造を基本的に定めたものである。

マックス・モズレーの弁護士時代

1960年にジーン・テイラーと結婚したマックス・モズレー

マックス・モズレーのレーシングドライバー時代

マーチ時代のマックス・モズレー、左側は共同創設者ロビン・ハード

マックス・モズレー、ジャン-マリー・バレストル、バーニー・エクレストン

マックス・モズレーとジャン-マリー・バレストル
マックス・モズレーは1982年、保守党で働くためにモータースポーツ界を離れたが、4年後にFISAの製造委員会の会長として復帰した。
モズレーは、この役割をきっかけに、1991年にFISAの会長に立候補した。その後1993年にFISAの母体であるFIA(国際自動車連盟)が統合された際に、その会長に就任した。
モズレーはすぐに、積極的で挑発的、かつ物議を醸す会長としての手腕を発揮した。
1993年には、チームの意向に反して、トラクション・コントロールやアクティブ・サスペンションなどのドライバー補助装置の使用を禁止することを指示した。また、膨大な知性を駆使して巧妙な戦略を練り、しばしばマキャベリ的な戦術を用いる彼の闘争的なアプローチは、20年近くの在任期間中、継続された。
彼の最大の試練は1年後に訪れた。1994年のサンマリノGPでアイルトン・セナが事故死し、その模様が全世界に生中継されたのだ。そしてその24時間後、オーストリア人ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーが同じレースの予選中にクラッシュして死亡した。
世界的なスポーツの象徴であり、母国ブラジルでは神のような存在であったセナの死は、F1の安全性が大きくに疑問視され、世界の指導者たちがモズレーにF1の立場に疑問を投げかけた。
F1の存在意義に対する脅威を認めたモズレーは、マシンに次々と変更を導入し、ドライバーと観客の安全性をモータースポーツの理念の中心に据え、常に向上させるという新しいアプローチを始めた。
このアプローチには、バーニー・エクレストンの後押しと、FIA医学代表のシド・ワトキンス教授、FIA F1ディレクターのチャーリー・ホワイティングの支援があった。彼らは一丸となって、F1の顔を変えていった。
FIA会長として、彼は乗用車にも目を向け、クラッシュテスト・プログラム "EuroNCAP" の導入に尽力した。
このプログラムは、自動車メーカーに最低限の安全基準を満たすことを初めて求めたもので、交通事故による死亡者数の減少に大きな役割を果たした。

チームの反乱
しかし、マックス・モズレーの任期が長くなればなるほど、F1チームは、権威主義的で恣意的なアプローチや、時として疑わしい方法や動機に不安を覚えるようになっていった。
F1チームのモズレーの対する評判は、1995年にF1のテレビ放映権をFOCAから奪い、100年リースでバーニー・エクレストンの会社に3億6,000万ドル(394億3,080万円*)というわずかな金額で売却したことで大きく傷ついた。
反感を買うようなF1運営スタイルは2000年代に入っても続き、ニューズ・オブ・ザ・ワールドの記事によってFIAでの彼の時代は終わりを迎えた。
彼は最初の退陣要求を生き延びたが、2009年にF1に予算制限を導入しようとしたとき、大手チームはうんざりした。
数々の政治的闘争の末マックス・モズレーは敗北した。主要なチームや自動車メーカーは、対立するチャンピオンシップを設立すると脅し、モズレーは、彼らを復帰させるために、2009年10月に満了する会長の任期を再延長しないことに同意せざるを得なかった。
マックス・モズレーのトリビュート-Source: bbc.co.uk
YouTube <動画3分55秒>
2021年05月25日*日本時間2021年06月01日04:59 の為替レート:1ポンド=155.600000円、1ドル=109.530000円
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