キミ・ライコネン(ザウバー)

2001年、フィンランド出身の物静かな男と、スペイン出身のティーンエイジャーが、次世代のリーダーとして期待されながらF1デビューを果たした。6年後の2007年には、ふたりともワールドチャンピオンになっていた。デビューから20年後、40歳を超えた今でも、ふたりはまだF1でレーシングを続け、それぞれ343戦、326戦のグランプリに参戦してきた。"MotorsportWeek.com" は、キミ・ライコネンとフェルナンド・アロンソにインタビューを行なった。<この記事の数字はすべて2021年夏休み前の数字>

マックス・フェルスタッペンが17歳でF1に昇格してルールブックを塗り替えたのは2015年のことだが、その14年前、スターティング・グリッドに並んだライコネンとアロンソは注目を集めた。どちらもジュニア・フォーミュラでの経験は最小限だった。アロンソはユーロオープン・バイ・ニッサンと国際F3000でわずか2シーズンを過ごしただけでF1に昇格した。ライコネンはフォーミュラ・ルノーUKからそのままF1に飛び込んだ。19歳のアロンソはF1史上3番目に若いレーサーとなった。

アロンソは、自身の急激な出世について「普通ではなかった」と語る。

「シミュレータもなければ、準備する場所もサーキットを学ぶ場所もなかった。実際、その年のサーキット・ウォークは、サーキットを学ぶためだけにしていた。今とは全く違っていて、今よりもチャレンジングだったと思う。今の若手ドライバーは万全の準備ができているが、当時は準備ができていなかった」

アロンソは、ベネトンからルノーへの移行期にチームを率いていたフラヴィオ・ブリアトーレの庇護下にあり、下位チームのミナルディに加わった。一方、ライコネンは、前年9月に行われたムジェロでのテストが成功し、中団チームのザウバーと契約した。

キミ・ライコネンは2001年ザウバーからF1に参戦した
キミ・ライコネンは2001年ザウバーからF1に参戦した。


ライコネンは「幸い、ムジェロでは、欧州フォーミュラ・ルノーで一戦走ったことがあったので、少なくともトラックを知っていた。それが役に立った」と語る。彼がF1をテレビで初めて見たのは幼い頃で、ケケ・ロズベルグのキャリア最後の戦いを目にした。

「トラック上を走っているF1マシンをライブで見たのは初めてだった。その後自分でハンドルを握ることになった。フォーミュラ・ルノーで慣れ親しんだものとは全く別物だった」

ライコネンは、F1マシンの直線スピードについては「大したことはない」と考えていたが、その他の面ではチャレンジングだと感じた。

彼は「ブレーキング、グリップ、大きなGフォース、パワー・ステアリングがなかったので、マシンを操縦するのはかなり重かった」と振り返る。

「首がもたなかった。操縦よりもそちらの方がチャレンジングだった。初日は、何もかもがあまりに素早く起きたが、次の日はすべてがスローダウンして、ずっと普通になった。脳はスピードやあらゆるものに慣れるものだ」

ライコネンは、慣例となっているF3やF3000のレベルを回避し、事実上、執行猶予付きでF1に昇格した。これは一部で注目を集めた。

幹部の中に彼の起用に反対する人がいたかどうかについては「いたと思う。いつの時代にもそういう人はいるものだ」と語る。彼の態度は一変し、マスクの下でもわかるほどの笑い声を上げた。

「でも僕はあまり記事は読まないし、正直なところ気にしない。昔も今も、どうでもいいんだ!」

「僕にスーパーライセンスを与えたくない人がいたとか、参戦数の制限があるライセンスしか持っていないと言ってる人がいたとか、たくさんの記事があったと思う。本当のところはわからないが、僕はシーズンを通してスーパーライセンスを持っていた。いくつかのレースでしか与えられないって? たとえ最初の2、3レース用のライセンスたったとしても、僕はいまだにスーパーライセンスを持っている。だから、うまくいったんだ」

フェルナンド・アロンソ(ミナルディ)
フェルナンド・アロンソはルーキー・イヤーをグリッド下位で過ごしたが、ミナルディの限界にもかかわらず、常に優秀だった。


ライコネンは、(当時トップ6にしか与えられなかった)ポイントを獲得できるマシンでシーズンを迎えたが、アロンソは出場すら危ぶまれていた。ミナルディは、ポール・ストッダートによる波乱万丈の買収手続きの最中で、経営難に陥っていた。

「最初はストレスが多かった」とアロンソは説明する。

「オーストラリアに向けて準備をする予定だったが、最後の最後で財政問題が発生した。オーストラリアに行けるかどうかは、あまりはっきりしていなかった」

「噂では、3戦目からチャンピオンシップに参戦し、最初の2戦を欠場するという話もあった」

「すると、土壇場になってポール(ポール・ストッダート)がチームを買収した。彼はオーストラリア出身だったので、オーストラリアでマシンをどうしても走らせたかったんだ。それが、オーストラリアに行くための最後の一押しとなったのだが、テストも何もなく、ギリギリの判断となった。次の週末の安全性という意味ではストレスが多かったが、最終的にはシーズンの残りはすべてが少し落ち着いた」




アロンソの準備期間が神経質だったとすれば、ライコネンの場合、彼の簡潔な人生に対するアプローチのおかげで神経質ではなかった。

キミ・ライコネン(ザウバー)
キミ・ライコネンはフォーミュラ・ルノーUKからいきなりF1に参戦した。


ライコネンは「もちろん、ある意味(F1は)別のレースだが、フォーミュラ・ルノーで慣れ親しんだものとは大きく違っていた」と言う。

「新しい方式なので、スタート、新しいトラック、新しい国など、あらゆることに慣れなければならなかった。でも僕はそれほど心配しなかった。バックパックを背負って出発し、何が出てくるかを見るだけだ! 僕はいつもそうしているし、(心配するのは)無意味なので心配などしない」

ミハエル・シューマッハ、ミカ・ハッキネンなどと一緒にグリッドに並んだ、ふたりにとって、F1に慣れるのはチャレンジングだったが、特にアロンソは疑念を感じていた。

アロンソは「下のカテゴリーに比べると多くの違いがあるので、F1に昇格するのは衝撃だった」と語る。

「メディア、注目、週末の厳しいスケジュール、技術レべル、エンジニアとの仕事に慣れなくてはならない」

「19歳で初めて経験するF1は、確かにショックだった。僕は、おそらくF1は自分の居場所ではないと考えていた。スペインのとても小さな町の出身で、F1のバックグラウンドも何もなかった。いつかワールドチャンピオンになって、最大限の成果を上げたいと思っていたが、当時はとても楽観的な夢のようだった」

フェルナンド・アロンソ(ミナルディ)
フェルナンド・アロンソはポイントを獲得できなかったが衝撃を与えた。


アロンソはいつF1が居場所だと感じたのだろう?

彼は率直に「たぶん… 2012年か2013年だ」と言う。

「そう、正直なところ10年後だ。質素な家庭の出身で、F1のすべては… ニセモノではなかったが、僕にとっては奇妙な世界だった」

一方ライコネンは、自分の人生の一面が取り返しがつかないほど変わることにすぐに気づいた。

「明らかに、メディアはフォーミュラ・ルノーとは全く違っていた。ある記者が何かを質問してきて、そのあと『さようなら』と言うだけだった。ずっとよかった! メディアがあまり好きではないが、常に存在しているものだし、これからもF1の一部であり続けるだろう」

ライコネンは「チーム内にどれほど大勢の人がいるか」や、2000年代初めに存在した厳しいテスト・スケジュールにも慣れなくてはならなかった。

「何もかもが新しかった… でもストレスは感じなかった。やってみたらうまく行ったんだ」

確かにうまく行った。ライコネンは2001年の半ばまでに引っ張りだことなり、最終的に、同胞ハッキネンの後継者としてマクラーレンと契約した。

ライコネンは「確かに、好成績がなければマクラーレンへの移籍はなかっただろう」と語る。

「おそらくフェラーリに移籍したかもしれない。ある時点で交渉をしていたから。ザウバーとの契約があったので、ちょっと厄介な状況になったが、すべてがうまく行った。僕とロバートソンズ(彼のマネージメント・チーム)にとって、チームを離れるだけではないことが重要だった。(エンジン・サプライヤーの)メルセデスとマクラーレンが面倒を見てくれた。ザウバーは僕が移籍することで見返りを得た。もちろん彼らにとって理想的ではなかったが、多くの見返りがあった。でも確かに結果に助けられた。(2001年の)好成績がなければ、僕は今ここにいないだろう」

ふたりのキャリは絡み合うことが多かった。ライコネンの初優勝は、アロンソの初ポール・ポジションと初表彰台と時を同じくした
ふたりのキャリは絡み合うことが多かった。ライコネンの初優勝は、アロンソの初ポール・ポジションと初表彰台と時を同じくした。


ミナルディのPS01(「走りやすかったし、予想よりも競争力があるときもあった」)の限界にもかかわらず、アロンソのパフォーマンスも、注目を集めた。彼は2002年を通じてルノーで広範囲にテストし、2003年に急成長を遂げているルノーのレース・シートを獲得した。

アロンソはルーキー・イヤーの重要性について「結果を出すこと、一貫性を保つこと、高いレベルの規律で仕事を続けることが重要だった」と語る。

「こういったことすべては、かなり素早くパドックで広まる。僕にチャンスを与えることにフラヴィオとルノーが、納得するよう、1年目に正しいメッセージを伝えることが重要だった」

ふたりのキャリアは絡み合っている。2003年、アロンソがマレーシアで初ポール・ポジションを獲得すると、翌日ライコネンが初優勝を果たした。ハンガリーでアロンソが初優勝したとき、ライコネンは2位だった。アロンソは2005年、ライコネンを抑えて栄冠を手にし、2006年もチャンピオンになった。2007年はライコネンがチャンピオンを引き継いだ。2014年にはフェラーリのチームメイトになった。ふたりとも、他のカテゴリーを試すために2年間F1を離れ(ライコネンは2010~11年、アロンソは2019~20年)。今では、かつて世話になったチームに所属している。アロンソはアルピーヌ(元ルノー)、ライコネンは3年契約のアルファロメオ(事実上ザウバー)で3年目のシーズンを過ごしている。

フェルナンド・アロンソ、キミ・ライコネン(フェラーリ、2014年)
ふたりは2014年、フェラーリのチームメイトになった。ライコネンは第2期の1年目、アロンソは契約終了に近づいていた。(ふたりのフェラーリ時代は、キミ・ライコネンは2007年~2009年、2014年~2018年、フェルナンド・アロンソは2010年~2014年)

アロンソは「最初から僕はルノーとつながりがあったし、このチームは僕にとって、僕のキャリアにとって大きな意味がある」と語る。

「20年間で大きく変わったとしても、ある意味DNAは変らない。チームというより、家族的な雰囲気のあるチームだ。パフォーマンスについて真剣で、プロフェッショナルだが、リラックスした雰囲気がある。今もそれは変らない。10年経った2020年にチームがどうなっているかわからなかったが、全く同じだった」

ライコネンは、アルファロメオ・ブランドのザウバーチームは「初めて来たときよりもとても大きくなった。ファクトリーもかなり大きくなったし、風洞も新しい。(2001年は)たぶん120人ほどいたが、今では400人から500人の間だ。でもこれはF1で生き残るために必要なことだ。もちろん名前は変ったが、大勢が残っているし、ザウバー・エンジニアリングと呼ばれている。だからペーター・ザウバーが長い時間をかけて築き上げた遺産が今も残っているのは嬉しい」と説明する。

ふたりとも、20年後もまだF1に留まっているとは想像もしていなかった。

アロンソはF1に留まっている理由について「僕には、レーシングに対する欲望と愛情があるのだと思う。F1に対して、常に最高の結果を出そうと、肉体的にも精神的にも献身的に取り組んでいる」と語る。最近の活躍は、彼がハイレベルでパフォーマンスをしていることを明確に示している。

「自信と、チームが僕に寄せる信頼のおかげでもある。幸運なことに、多くのチーム代表や多くのチームから信頼を得てきたし、パフォーマンスのおかげでそのレベルの信頼が得られた」

キミ・ライコネン(ザウバー)
キミ・ライコネンは、コンストラクターズ・チャンピオンシップでザウバーの最高となる4位に貢献した。


ライコネンは2001年「ここにいるだけで幸せ」で、「来年や再来年のことは考えていなかった。例えば、2000年代半ばに、誰かに(2021年も)F1に参戦していると言われても、間違いなく、あんたはクレージーだと言っていただろう。しかしそうなってしまった。もちろん数年間F1から離れ、NASCARネイションワイドに移籍してレーシングをした。レーシングをしたかったし、楽しかった。すると(F1に戻るという)選択肢が出てきた」

アロンソはアルピーヌと1プラス1の契約をしているため、新規約が導入される2022年もほぼ間違いなくF1に留まるだろう。このリセットはF1の新しいチャンスとして受け止められている。

しかし、ライコネンは2021年より先はアルファロメオとの契約がない。レースの世界で他にやりたいことはないのだろうか?

ライコネンは「将来については全く何も考えていない」と言う。グリッドの同僚たちの一部がごまかすのとは異なり、彼の言葉は本心である。

「すでに言ったように、僕はあまり計画を立てないんだ。次のレースがいつあるのかさえ知りたくない! 『フライトはいつだ?』と妻に聞くと教えてくれるので、荷物をまとめて出発するだけなんだ! それ以上のことはあまり知りたくない。それがPR関係なら腹が立つだけだから! 飛行機に乗る必要がある数時間前に知った方がましだ」

「ずっと先の計画を立てるようなタイプじゃない。何もしないかもしれないし、レーシングを続けるかもしれない。息子がまだカートをやりたがっているのならカートをするかもしれない。あるいはラリーか何かをするかもしれない。何も考えていないんだ」

2007年末、アロンソは栄冠をライコネンに引き継いだ
2007年末、アロンソは栄冠をライコネンに引き継いだ。


ふたり合わせるとF1出走669戦、ワールドタイトル3つ、優勝53回、そして多くの思い出がある。ふたりは最高も最低も経験した。しかし違うチャンスが与えられたとしたら、もっと違うやり方をしただろうか?

アロンソは「過去20年間してきたことを変えるとしたら、それは僕ではなくなるだろう」と断言する。

「この20年間、無理やり何かをさせられたことはなかった。いつも僕自身だった。ときには役に立たないこともあったり、マシンの外では正しくないこともあっただろう。でもそれを変えてしまったら、僕はニセモノになり、自分ではなくなってしまうだろう。だからこれでいいんだ」

ライコネンも「何も変えないだろう。ひとつを変えればすべてが違ってくるかもしれないから」と言う。

「正直、何も変えないだろう。僕がしてきたこと、あるいはもっと結果をよくすることができたとしても、そういうことだ。もう少し運がよければ、あるいは何かが壊れなければ、あるいはあちこちでミスが少なければ、もっとよい結果になっていたかもしれない。しかし、そういうこともある。長い間やっていれば、よいことも悪いことも、奇妙なことにも変わったことにもなじんでくる。今の生活に満足している」

2021年F1:キミ・ライコネン(アルファロメオ)、フェルナンド・アロンソ(アルピーヌ)
キミ・ライコネン(アルファロメオ)、フェルナンド・アロンソ(アルピーヌ):2021年F1
-Source: Motorsport Week