ファン・マヌエル・ファンジオは、F1で5回のワールドチャンピオンになった、アルゼンチンのレーシングカー・ドライバーである。
ファン・マヌエル・ファンジオを史上最も偉大なドライバーだと見なす人は長年多かったが、現在ではF1タイトル7回獲得のミハエル・シューマッハとルイス・ハミルトンを入れて史上最も偉大な3人のF1ドライバーと見なされているし、FIAのF1歴代ワールドチャンピオン一覧表ではトップに3人の写真が飾られている。
ファン・マヌエル・ファンジオは、F1にワールドタイトルの付いた1950年から8年間で7シーズンF1にフル参戦した。ノンタイトルのレースでの大事故で、命にかかわるような重傷から回復するため1952年の1シーズンは不参戦だった。彼はF1で、4チームを渡り歩き、5度ワールドチャンピオンになり、2度2位になった。さらに彼の記録は、51回のグランプリ出走中フロントロー・スタートは48回(ポール・ポジション29回)、ファステストラップ23回、表彰台35回(そのうち24回は優勝)である。
草創期のF1とはいえ、ファン・マヌエル・ファンジオの完璧な記録は、見事な熟練と大胆さによって達成された。彼は、F1ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代に、それを粋で優雅で上品に、そしてユーモアのセンスを持って達成したが、この圧倒的な勝率やその他の割合数字はこれからも抜かれることはないだろう。
ファン・マヌエル・ファンジオ
Juan Manuel Fangio
国籍 アルゼンチン
生年月日 1911年6月24日(アルゼンチン・バルカルセ)
没年月日 1995年7月17日(84歳没 アルゼンチン・ブエノスアイレス)
F1経歴
F1参戦年:1950年~1951年、1953年~1958年
チーム:アルファロメオ(1950,1951)、マセラティ(1953,1954,1957,1958)、メルセデス(1954,1955)、フェラーリ(1956)
初戦、最終戦:1950年イギリスGP、1958年フランスGP
初勝利、最終勝利:1950年モナコGP、1957年ドイツGP
タイトル:5回(1951年、1954年、1955年、1956年、1957年)
出走:52回(決勝スタート51回)
優勝:24回
表彰台:35回
ポール・ポジション:29回
ファステストラップ:23回
ファン・マヌエル・ファンジオ(アルファロメオ159)モンツァ
ファン・マヌエル・ファンジオ(アルファロメオ159)ニュルブルクリンク
1955年F1ベルギーGP(スパ・フランコルシャン)
ファン・マヌエル・ファンジオとスターリング・モス(メルセデス)が1位,2位 - 雨の予選、晴れの決勝レース。
素晴らしいスパを3時間、シートベルトやロールケージなしでストレートでは当時でも時速200マイル(322km)で走るF1マシン。メルセデスの二人以外にもカール・クリング、マイク・ホーソーン、ジュゼッペ・ファリーナが命知らずのレースをしている動画(28分55秒)。
ファン・マヌエル・ファンジオ(フェラーリ)1956年モナコ
ファン・マヌエル・ファンジオ、マセラティをテスト走行、1957年
1957年F1ドイツGP(ニュルブルクリンク)
ファン・マヌエル・ファンジオ(マセラティ)、優勝で5度目のF1ワールドチャンピオンを決めたレース(21分48秒)。
アルゼンチン、南米長距離ロードレース
ファン・マヌエル・ファンジオはワールドタイトルがつく前のF1黎明期から活躍し、ライバルたちは1957年46歳で最後のドライバーズ・タイトルを獲得した高齢の天才を「オヤジ」と呼んで称賛した。そのオヤジに挑戦する多くのいや、ほとんどのドライバーは息子と言ってもよいほど若く、そのほぼ全員が、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから350km離れた、ほこりっぽい辺境の地バルカルセ出身の彼とは全くかけ離れた特権階級の出身だった。彼の両親はイタリアのアブルッツォ地方からの勤勉な移民で、神と労働の尊さを信じて6人(息子3人と娘3人)の子供を育て上げた。ファンジオは、彼の人生に対するアプローチを特徴づける誠実さ、高潔さ、自制心、他人への尊敬という美徳は両親から教え込まれたものだと考えていた。世界的な名声を得た彼は当然だが兄弟で一番両親に尽くした。
1911年6月24日生まれのファン・マヌエル・ファンジオは、6人兄弟の4番目だった。彼は13歳のとき、学校を中退し、自動車修理工場でアシスタントメカニックとして働き始め、その後40年近く同じビジネスに関わる一方で、F1レースが子供の遊びに見えるほど過酷な南米長距離レースに自ら用意した原始的なマシンで参戦した。この狂気の長距離ロードレースは、一度に何週間もかけ数千kmを走破する、そこで彼を一躍有名にした優勝レースは1940年のブエノスアイレスとペルーのリマを往復する約9,500kmだった。他のレースも何週間もかける現代では信じられない距離で、そこで超人的な努力により、彼は驚くべき困難と天文学的なオッズをはねのけて何度も優勝を果たした。ファンジオは、無類の機械的知識と競技経験と巧妙なレース手腕を携え、さらに政府からの後援で1949年、38歳でヨーロッパのレースに参戦した。
ヨーロッパ進出
南米のレースカーと比べるまでもなく、洗練されたマシンによるF1レースのおかげで、ファン・マヌエル・ファンジオはドライビング・スキルを磨いてさらなる高みに達した。彼は4輪ドリフトの先駆者であり、見る者を大いに楽しませた。恐ろしいほどの勢いでコーナーに進入し、タイヤから煙をあげつつも完全にコントロールされた横滑りを見せて観客をハラハラさせた。ファンジオには優れたマシンコントロール以外にも純粋な腕力と驚くべきスタミナがあったため、彼は粗いトラックを3時間以上、そして当時のグランプリはそれが普通だった重くて扱いにくいマシンを走らせていた時代において卓越していた。ファンジオの際立った耐久力は、優れた精神力、忍耐力、根気、高い集中力、ゆるぎない闘志の産物だった。言うまでもなく、非常に危険だった当時、ファンジオは他のドライバーと同じく、現在のF1ドライバーが想像できないような冷静さとむき出しの度胸を持っていた。
モンツァの事故で重傷
ファンジオはほとんど事故を起こさず、唯一の重傷は、1952年6月、北アイルランドのダンドロッドでの非チャンピオンシップ・レースの翌日、フランス・リヨンで乗り継ぎ便に乗り遅れ、次の日に再び非チャンピオンシップ・レースに参戦するためイタリア・モンツァまで、アルプスの山道を夜通しドライブして、スタートの30分前の午後2時に到着し、疲労が残ったままに出走するという判断ミスによる結果だった。レース2周目、彼はマセラティのコントロールを失って芝生の土手に衝突して投げ出され、複数の負傷でミラノの病院に運ばれたが、最も深刻なのは首の骨折だった。彼は頸部骨折により胴体上部に麻痺的な症状が出て、骨折以外の負傷がある程度治ったところで療養のため母国アルゼンチンに戻っていった。レース関係者や彼の親しい人たちは、ファンジオが欧州に戻ってレースができるかどうか半信半疑だった。
1953年、ヨーロッパのレースシーンではフォーミュラだけではなくスポーツカーのレースでも完全に復活したファンジオがいつものように大活躍していた。
人間的魅力
禿げかかった頭部、短躯、ずんぐり体型でニックネームは「エル・チュエコ(がに股)」、魅力的ではない外見は人間的魅力の下に隠れ、その魅力とドライビングにおける偉業のおかげで、彼は世界的な称賛を受ける人物になった。女性は彼を非常に魅力的だと見なした。彼は一度も結婚しなかったが(ただしある女性とは20年間交際した)、交際相手に不足することはなかった。1958年フィデル・カストロの革命運動のメンバーがその大義に注目を集めるために彼をキューバで誘拐すると、彼はさらなる国際的セレブになった。彼と会った人が誰でもそうなるように、誘拐犯人らはファンジオに魅了され、無傷のまま彼を解放した。
彼はあらゆる意味で真の紳士であり、善良なドライバーは最下位でゴールするという想像上のルールの例外であることを証明した。彼の寛容さ、フェアプレー精神、常に変わらぬ礼儀正しさ、驚くほどの謙虚さ、純粋な人間性は、特に同僚らによって広く称賛され高く評価された。
ファンジオのライバル(そしてメルセデスのチームメイト)のスターリング・モスは「人より速く走るドライバーのほとんどはろくでなしだった」と語った。彼はファンジオを「マエストロ」と呼び、父親のように敬愛した。「ファン(ファン・マヌエル・ファンジオ)の性格のどの部分をとっても、自分にそういう面があったらよいと思えるものだった」
ファンジオの強みは、チームプレーヤーにもなり最高位のチームリーダーにもなれることだった(彼はいつもメカニックを味方につけた)。彼はチームを鼓舞し、実際的な貢献も果たし(彼自身がレンチを扱うこともしばしばあった)、これが必ず士気を高めスタッフから最高のものを引き出した。
チームが彼を失望させたときでさえ、ファンジオはそのドライビング能力のおかげで敗北を免れ優勝を手にしたことがあった。彼の最もセンセーショナルなパフォーマンスは、モスを含めF1史上最高の走りと見なしているものは、1957年手ごわいニュルブルクリンクで開催されたドイツGP、マセラティのピットストップ失敗後のことだった。マイク・ホーソーンとピーター・コリンズの乗るフェラーリに1分近く差をつけられた「オヤジ」は、マセラティで最高のサーキットを疾走し、ラップタイム記録を更新して2人のイギリス人ドライバーを2位と3位に追いやった。
この画期的な走りにより、彼は5度目のドライバーズ・タイトルを獲得したが、彼にとってはこれが最後の優勝となった。数ヶ月後、あまりに激しく攻め、あまりに多くの同僚の死を悲しみ(キャリアの間に30人以上が事故死した)、ファンジオは46歳という最高齢チャピオンシップ参戦記録と消えることのない伝説を残して引退した。そして1995年母国アルゼンチンで亡くなった。享年84歳。