ジュゼッペ・ファリーナ:F1ワールドチャンピオン

ジュゼッペ・ファリーナは、F1の初代ワールドチャンピオンになった、イタリアのレーシング・ドライバーである。

史上初のF1ワールドチャンピオン、ジュゼッペ・ファリーナは特権階級の出身で、「ニーノ」というかわいい愛称で呼ばれていたが、頑固で決然としたレーサーで、深い自信とむき出しの度胸で、天賦の才能あるライバルの多くが持つ優れた技術と戦っていた。その上、ニーノ・ファリーナの走りは無謀だった。これほどあからさまに自身の安全を無視して戦ったF1ドライバーはほとんどいないだろう。事故ばかりのレーシングキャリアをどうにか生き延びたものの、彼は最終的に交通事故で亡くなった。



ジュゼッペ・ファリーナは、1950年初代F1タイトルを獲得した時はすでに44歳で、彼は1937年に母国イタリアでチャンピオンになり戦争で中止になるまで3連覇している。戦後の自動車レースの世界選手権に、全盛期は過ぎたかもしれないが年齢的にギリギリ間に合ったのかもしれない。でも彼のレーススタイルは戦前戦後も「恐れずアクセルを踏み続ける勇気あるレーサーで、マシンを提供する側が一番してほしくないクラッシュを全く恐れない男だった」とエンツォ・フェラーリは証言している。

ジュゼッペ・ファリーナを扱った記事や書籍を読んでいると、古くなるほどあまり良い書かれ方をされていない。この記事の最初の紹介文はちょっと人物評価に癖のあるジェラルド・ドナルドソンによって2000年前後に書かれたF1公式サイトのタイトルドライバーの紹介文で、ファリーナの死後30年以上経っているのに結構厳しいが、リアルタイムでレースを見たライターたちの回想録的な書籍はもっと辛らつになる。だが、彼のF1成績を見ると、33回レースに出て、5回の優勝を含む20回の表彰台(3位以上)という素晴らしい成績で、彼がフル参戦したのは4年間で、年間成績は1位(44歳)、4位(45歳)、2位(46歳)、3位(47歳)、クラッシュを含むリタイヤは4年間で6回だけで、「才能がない」とはとても思えないし、この年齢では本当にすごいと思う。タイトルを獲得後の3年間は、南米から来た天才ファン・マヌエル・ファンジオと30代前半のアルベルト・アスカリに優勝を阻まれたが、彼の44歳からの加齢を考えるとファンジオやアスカリに対する称賛とは対照的だ。「大金持ちの息子で、その上、若いときは足が速くサッカーとスキーが得意で、トリノ大学では法律の博士号取得」という生まれも育ちもよく、さらにスポーツも学問も出来る万能型人間だったが、スターリング・モスの「(ファンジオ以外は)人より速く走るドライバーのほとんどはろくでなしだった」的な性格で当時の記者やF1ライターたちに嫌われていたのかもしれない。

いずれにしても成績だけを見ると、「事故ばかりのレーシングキャリア」ではなく、ジュゼッペ・ファリーナは、初代F1ワールドチャンピオンにふさわしい勇敢な速いドライバーだったことは間違いない。

皇太子明仁親王(平成天皇)とジュゼッペ・ファリーナ:1953年F1ドイツGP表彰式

ジュゼッペ・ファリーナは、日本と素敵な接点がある。彼のF1での最後の優勝は1953年ドイツGPで、その時貴賓席で観戦していたのは、エリザベス2世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列のため、6か月間欧米を歴訪していた皇太子明仁親王(当時19歳, 平成の天皇, 現上皇明仁)だった。レース後の表彰式で皇太子はファリーナを祝福し握手を交わす、皇太子明仁親王とジュゼッペ・ファリーナが表彰台に並ぶ写真と動画は、日本人のF1ファンとして感動を覚えずにはいられない。

1953年F1ドイツGP(ニュルブルクリンク) 6分30秒から表彰式


平成の天皇陛下のドライビングも結構アグレッシブ。




ジュゼッペ・ファリーナ
Giuseppe Farina
国籍 イタリア
生年月日 1906年10月30日(イタリア・ピエモンテ州トリノ)
没年月日 1966年6月30日(59歳没 フランス・サヴォワ県エーグベル)
F1経歴
F1参戦年:1950年~1956年
チーム:アルファロメオ(1950,1951)、フェラーリ(1952,1953,1954,1955)、ランチア(1956)
初戦、最終戦:1950年イギリスGP、1956年インディアナポリス500
初勝利、最終勝利:1950年イギリスGP、1953年ドイツGP
タイトル:1回(1950年)
出走:36回(決勝スタート33回)
優勝:5回
表彰台:20回
ポール・ポジション:5回
ファステストラップ:5回



1950年F1イギリスGP
ジュゼッペ・ファリーナ(アルファロメオ)はタイトルの付いた最初のF1レースで優勝。