Formula 1: The Impossible Collection(ブラッド・スパージョン著者、アスリーヌ社)は2021年5月20日に発刊

アスリーヌ社の新刊は、F1の70年の歴史に関する995ドルの書籍

著者のブラッド・スパージョンが、モータースポーツとの関わりや、F1シリーズの歴史の中で最も重要な瞬間をどのように選んだかを語ってくれた。

自分のライフワークの結晶を手にすることができる幸運な人は少ないが、今やブラッド・スパージョンはそのひとりになった。そのことを、世界中のモータースポーツファンは、感謝するべきだろう。スパージョンは、ドキュメンタリー映画制作者、ミュージシャン、ブロガーとして活躍する前、20年以上インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙とニューヨーク・タイムズ紙でF1を取材し、在任中は全シーズンの全レースに参加した。彼がその経験から、高級書籍専門出版社のアスリーヌ社から出版された卓上用大型豪華本 "Formula 1: The Impossible Collection" の著者として選ばれたのは当然である。

5月20日に発売されたこの995ドル(10万9,191円*)の本は、世界で最も有名なレース・シリーズであるF1の歴史で最も重要な100の瞬間をカタログ化したもので、F1に影響を与え続けるドライバー、チーム、不幸な出来事、そしてマイルストーンを含む228ページ、175枚のイラストが掲載されている。FIA(国際自動車連盟)やF1組織は、この本の開発や内容の選定には一切関与していないが、FIA会長ジャン・トッドとFIAのCEOステファノ・ドメニカリが感謝の意を込めて序文を書いた。

その日にこの本を手にしたスパージョンは、F1での経験と、この記念すべきプロジェクトを成功させるために必要だったことを語ってくれた。

Formula 1: The Impossible Collection(ブラッド・スパージョン著者、アスリーヌ社)は2021年5月20日に発刊
"Formula 1: The Impossible Collection" は2021年5月20日に発刊された。

Q:F1への愛はどのようにはぐくまれたのでしょうか?

ブラッド・スパージョン:1967年、父にカナダGPに連れて行ってもらったのだが、そのときに同級生の父親がレースに出ていた。同級生はわたしをよく彼の父親の家に連れて行ってくれたので、ガレージを覗いてローラを見たりしていた。だから周囲の人たちからすぐに影響を受けたし、父も車が大好きだった。父が家庭教師としてヨーロッパでウロウロしていた1950年頃にスターリング・モスと出会い、女の子をめぐって喧嘩をしたそうだ。で、スターリング・モスが勝った。

Q:どうやって20年以上もF1を取材するジャーナリストになったのですか?

ブラッド・スパージョン:もともとジャーナリストになりたいとは思っていなかった。父はアメリカの宇宙開発を取材するジャーナリストだった。わたしは父の生活から少しでも遠ざかりたいと思い、自転車乗りやジャグラーとしてサーカスに参加した。3年後、私は作家になりたいことがわかり、大学に進学した。そしてソルボンヌ大学で学ぶためにフランスに行った。フランスでは、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンの門を叩き「記録保管所で働く人間を必要としていないか」と尋ねた。それが最善の足掛かりになると思った。結局、自分のやり方で仕事をして、さまざまなテーマについて書くことになった。

著者のブラッド・スパージョンとアスリーヌ社から出版された彼の新刊 Formula 1: The Impossible Collection
著者のブラッド・スパージョンとアスリーヌ社から出版された彼の新刊 "Formula 1: The Impossible Collection"

ブラッド・スパージョン:(続き)わたしは絶対的な(F1の)ファンだったが、往々にしてファンの方がレースを取材するはずの人よりも詳しいものだ。ヘラルド・トリビューン紙には、モナコに派遣された偉大なジャーナリストがいたのだが、彼はレースについて何も知らないのでわたしに電話をかけてきた。わたしは彼の質問にすべて答えた。わたしは、自分はライターであり、F1を愛しているが、彼はそうではないとわかった。それで1993年に、そのシーズンについて、そしてプロストとセナの戦いについて自分で記事を書いてみた。すると翌日にそれが使われた。それ以来、レース・レポートを書くことが性に合い、自分自身に疑問を持つことはなかった。しかし、新聞のレギュラー記事にするためには、数年間戦わなくてはならなかった。

Q:新刊のミッション・ステートメントは?

ブラッド・スパージョン:1950年から2020年までの71シーズンのF1の歴史の中で、最も驚くべき、最も重要な、ありえない100の瞬間を、文章と写真で紹介したものだ。

A:このプロジェクトのきっかけは?

ブラッド・スパージョン:この本はアスリーヌ社のアイデアだ。聞くところによると、マルティーヌ・アスリーヌはジャン・トッドとシリアで、この本を作れるのは誰だと思うかと尋ねたところ、わたしの名前が出てきたそうだ。この本の背景にあるアイデアを見ると、わたしが見てきたF1のすべてを総括するこのような機会として、これ以上のものはないと考えた。

ピットレーンから出ていくF1マシン
ピットレーンから出ていくF1マシン

Q:最初の選考基準は何だったのですか?

ブラッド・スパージョン:何らかの形で傑出していなければならない。例えば事故であれば、それが何らかの形で大きな影響を与えたという理由があれば掲載しなければならなかった。マシン・デザイン、チームの発展、ドライバーの業績、レーストラックそのもの、技術、社会的発展など、できるだけ多くの側面をカバーしたかったが、それは本当に難しかった。

Q:どこから始めたのですか?

ブラッド・スパージョン:分析を始めてみると、71シーズンで33のワールドチャンピオンが誕生していることがわかった。優勝した各ドライバーに焦点を当てると33の場面になり、1シーズンに1回の瞬間を選ぶと、すでに100回を超えてしまう。最初に150場面のリストを作成してから、さらに絞り込んでいく必要があった。また、特定の出来事を組み合わせることもできた。例えば、この本の後半では、1989年にプロストとセナが鈴鹿でクラッシュし、プロストがワールドチャンピオンになった事件を取り上げた。その後、1990年にもプロストとセナのクラッシュがあった。わたしにとってはどちらも偉大で重要な瞬間だったが、結局、1989年だけを残し、その1年後にクラッシュがあったことは文中で言及した。



1958年モナコGP。ヴァンウォールのスターリング・モスがチェッカー・フラッグを受け、チームは最初のコンストラクターズ・チャンピオンになった
1958年モナコGP。ヴァンウォールのスターリング・モスがチェッカー・フラッグを受け、チームは最初のコンストラクターズ・チャンピオンになった。

Q:選定から執筆まで、最終的にはどのくらいの期間を要したのでしょうか?

ブラッド・スパージョン:数ヶ月を要した。この本の冒頭でも述べているが、すべてのレースには重要な場面がある。最も重要な場面を、どこで、どのように定義するのか? そのリストができてから、それぞれを書き上げるのは百科事典のようなプロジェクトだった。100語のキャプションで、例えば15の異なる事実をチェックしなければならないので、何千もの事実がある。そして、このクオリティと価格の本では、何かを間違えたくはなかった。

Q:FIAやF1の誰かがフィードバックや提案をしましたか?

ブラッド・スパージョン:いや、それは全くない。アスリーヌ社でさえ自由にさせてくれた。

2007年、ルイス・ハミルトンのピットイン、F1ルーキー・シーズンの2戦目(マレーシアGP)
2007年、ルイス・ハミルトンのピットイン、F1ルーキー・シーズンの2戦目(マレーシアGP)

Q:写真が素晴らしいですね。どのようにして入手したのですか?

ブラッド・スパージョン:リストを作成すると、(F1フォトグラファーの)バーナード・アセットが、この本に合う写真を何ヶ月もかけて探してくれた。彼の仕事は最も困難なもののひとつだった。F1の写真は大量に存在するが、適切な写真を見つけるのはしばしば大きな困難を伴う。彼が各瞬間の画像を選んだ後、マルティーヌ・アスリーヌ自身が本に掲載するベストな写真を選んだ。

2007年、ルノーR27に乗るヘイキ・コバライネンをとらえたフロントウィングの車載カメラ
2007年、ルノーR27に乗るヘイキ・コバライネンをとらえたフロントウィングの車載カメラ。

Q:個人的に、F1の取材で最も印象に残っていることは何でしょうか?

ブラッド・スパージョン:1998年のベルギーGPだ。わたしは当時はバックストレートが見えるトラックの上にあるメディア・センターにいた。レースが始まる前に、(当時のF1ディレクター)チャーリー・ホワイティングにインタビューをした。土砂降りの雨だった、ドアを通って彼のオフィスに入らなくてはならなかった。彼は(レーサーの)デイヴィッド・クルサードとの会話を終えたところだった。わたしは、クルサードが彼にこう言っているのが聞こえる距離にいた。「チャーリー、知っておいてほしいんだけど、もし君がセーフティカー先導のスタートを決めなければ、多くのドライバーがコースアウトすることになるだろうし、僕もそのひとりになるだろう」

彼らはセーフティカー先導のスタートを採用しなかった。土砂降りの雨で、クルサードが横滑りしてコースアウトすると、連鎖反応が起きて、最初のコーナーで13台のマシンが互いにぶつかった。合計1,300万ドル(の価値のあるマシン、14億2,662万円*)が煙に変わったが、幸い誰も負傷しなかった。1998年のベルギーGPはインシデント続きの異常なレースで、わたしは本当に短い納期に追われ、レース・レポートを書いている間のストレスは尋常ではなかった。ホテルの部屋に戻ってバスルームの鏡を見ると、生まれて初めて髪の毛が抜けていることに気がついた。

1971年イタリアGPは、F1で最も僅差の0.01秒で勝敗が決まった
1971年イタリアGPは、F1で最も僅差の0.01秒で勝敗が決まった。

Q:パンデミックは、このプロジェクトの作業にどのような影響を与えましたか?

ブラッド・スパージョン:昨年の7月までF1が開催されず、開催されても観客がいないという奇妙な状態で運営されていたので、ビフォー・アフター感がある。わたしがこの作品に取り組んでいたのは、(F1が)ある意味で時間が止まっていたときだった。F1の70年を振り返る良い機会になった。もちろん、2020年のシーズンも含めている。2020年シーズン、ルイス・ハミルトンがシューマッハのタイトル数に並び、レース数も上回ったが、これは重要な分岐点となる成果だった。パンデミックのおかげで、この本に取り組むことができたし、パンデミックを乗り切るためにこの本があってよかった。

F1唯一のポイント獲得女性ドライバー、レラ・ロンバルディ(マリア・グラツィア・ロンバルディ)が1975年スペインGPで6位になった
F1唯一のポイント獲得女性ドライバー、レラ・ロンバルディ(マリア・グラツィア・ロンバルディ)が1975年スペインGPで6位になった。

Q:F1は若い観客を惹きつけるためにもっと努力する必要があるのでしょうか?

ブラッド・スパージョン:わからない。F1は何年も前から若い観客の獲得を目指していて、今ではeスポーツにも取り組んでいる。ビジネスの観点から、この市場を利用したいと考えているのかもしれない。個人的には、誰がF1ファンになっても構わないと思う。ただし、95歳の老人だけになってほしくないという視点は理解できる。でも、レースを見に行くと、たくさんの子供たちを見かける。自分の息子が9歳のとき、わたしが初めてレースを観戦したのと同じ年齢のときに、フランスGPに連れて行き、パドックに入れてもらったことがある。あんなに喜んでいる息子を見たのは初めてだった。

1982年、米国は1シーズンに3戦を開催した唯一の国になったが、2020年にイタリアも3戦を開催した
1982年、米国は1シーズンに3戦を開催した唯一の国になったが、2020年にイタリアも3戦を開催した。

Q:フォーミュラEの成長はF1にどういう意味を持つでしょうか?

ブラッド・スパージョン:自動車レースの頂点が、最終的に何らかの形の燃料電池に移行することは絶対に避けられないと思っている。そうなり始めたときに、F1で内燃機関を続けることはできないだろう。内燃機関が今後20年あるいは30年続くとは思えない。



-Source: Robb Report
*日本時間2021年06月14日11:49 の為替レート:1ドル=109.740000円