6. チームオーダー

デイモン・ヒルとデイヴィッド・クルサード(ウィリアムズ)1994年F1ポルトガルGP
デイモン・ヒルとデイヴィッド・クルサード(ウィリアムズ)1994年F1ポルトガルGP

万が一、ランド・ノリスがグランプリで勝つことはなく、ソチが最大のチャンスだったとしたら、2週間前のモンツァで、マクラーレンのチームメイトであるダニエル・リチャルドから優勝を奪うのではなく、彼の後ろに留まったことを後悔するかもしれない。

1位リチャルド、2位ノリス
ノリス「この順位でいるのが最善のプランだと思う?」
エンジニア「それが最善のプランだ」

1993年のマニクールでアラン・プロストに優勝を譲ったデイモン・ヒル(彼にとってはシルバーストンとホッケンハイムの連続悲劇の1戦前)や、1994年ポルトガルのエストリルでは、先頭を走りながら渋滞のなかでヒルに順位を譲り、彼の優勝を律儀にサポートしたいたデイヴィッド・クルサードも、その後優勝することがなければ同じように感じただろう。ラルフ・シューマッハは、1998年ベルギーGPで、ジョーダンのチームメイトのヒルを抜かずに2位を守るというチームオーダーにひどく不満だった。

しかし、チームオーダーによってドライバーのF1初優勝が奪われる最も悲しいストーリーは、ミカ・サロの話である。

負傷したミハエル・シューマッハの代役としてフェラーリに乗って2戦目(1999年ドイツ)、サロは予選でチーム・リーダーのエディ・アーバインに勝ち、レースでも彼の前を走っていた。しかしミカ・ハッキネンのピットストップの失態によりフェラーリが1-2になるとすぐに、サロはタイトル争いをしているチームメイトに先頭を譲った。だが、サロがこれほどF1優勝に近づくことは二度となかった。

1位エディ・アーバイン(フェラーリ)、2位ミカ・サロ(フェラーリ)、3位ハインツ-ハラルド・フレンツェン(ジョーダン無限ホンダ):1999年F1ドイツGP
1位エディ・アーバイン(フェラーリ)、2位ミカ・サロ(フェラーリ)、3位ハインツ-ハラルド・フレンツェン(ジョーダン無限ホンダ):1999年F1ドイツGP

7. 謎のオイル漏れ

F1デビュー戦のジャック・ヴィルヌーヴがトップ走行、2位はウィリアムズのチームメイトのデイモン・ヒル、写真はヴィルヌーヴがコースを外れた瞬間:1996年F1オーストラリアGP
F1デビュー戦のジャック・ヴィルヌーヴがトップ走行、2位はウィリアムズのチームメイトのデイモン・ヒル、写真はヴィルヌーヴがコースを外れた瞬間:1996年F1オーストラリアGP

ジャック・ヴィルヌーヴは、F1デビュー戦の1996年オーストラリアGPで初優勝を果たすはずだった。

不運なことに、重大なオイル漏れが発生したため、完走するために終盤は劇的に減速せざるを得なくなり、優勝をウィリアムズのチームメイトであるデイモン・ヒルに譲った。ヒルのマシンには、ヴィルヌーヴが失ったオイルがかなり付着していた。

ヴィルヌーヴのオイル漏れは、最初のコーナーで彼がコースアウトしたのが原因とされることが多いが、彼は芝の上を滑り、ヒルからのアタックをかわして首位を守った。

レース後ウィリアムズは、オイル漏れは、ヴィルヌーヴが縁石に当たったためと説明しており、多くの人がこの結論に至った。

しかしこの時点で、ヒルのマシンはかなりオイルが付着しており、ヴィルヌーヴは、レース序盤、テレビカメラに移らない場所で縁石に激しく当たったと考えられた。

ヴィルヌーヴは「僕にも責任の一端があるとわかって、ある意味ホッとした。おかげで、2位を受け入れるのが少し楽になった」と述べた。

8. 僅差のフィニッシュ

1971年F1イタリアGPは1位から5位が0.61秒の僅差のレース
1971年F1イタリアGPは1位から5位が0.61秒の僅差のレース

1971年イタリアGPは、ワールドチャンピオンシップ中で、ひときわ僅差のレースとなった。上位4台の差が0.2秒足らずだったのだ。

これはピーター・ゲシン唯一の優勝であり、BRMにとってF1最後の優勝だったが、彼のすぐ後ろでフィニッシュした3人のドライバー、ロニー・ピーターソン、フランソワ・セベール、マイク・ヘイルウッドの初優勝になったかもしれなかった。

驚くべきことに、5人目のドライバー、BRMのハウデン・ガンレイもフィニッシュ写真に写っていた。彼はゲシンに遅れることわずか0.61秒だった。しかし、これほど接戦だったにもかかわらず、彼は5位に終わった。

不運だった4人のうち、ピーターソンとセベールは、その後グランプリで優勝したが、ヘイルウッドとガンレイは優勝しなかった。

9. タイヤブロー

デイモン・ヒル(ウィリアムズ)タイヤブロー:1993年F1ドイツGP
デイモン・ヒル(ウィリアムズ)タイヤブロー:1993年F1ドイツGP

デイモン・ヒルがこのリストに登場するのは3回目である。1993年シルバーストンでの痛手からわずか2週間後、ヒルはホッケンハイムの残り2周でアラン・プロストに12秒差をつけていたが、左リア・タイヤが破損した。ヒルにとって幸いなことに、2戦連続の悲劇のあと、3戦連続で優勝した。

6年後、ドイツの別のサーキット(1999年ニュルブルクリンク)で、ラルフ・シューマッハはパワー不足のウィリアムズ・スーパーテックを駆り、タイトル争いの大穴だったハインツ-ハラルド・フレンツェンのジョーダンとともに、にわか雨のなかマクラーレンやフェラーリを狼狽させた。

フレンツェンが誤ってマシンのスイッチを切ると、(もう一度ピットインすると見られていた)ワイルドカードのリーダー、ジャンカルロ・フィジケラがベネトンをクラッシュさせた。ラルフ・シューマッハは地元でF1初優勝に向けて順調に走っていたが、残り16周でタイヤがパンクしてしまった。

ジョージ・ラッセルも、このタイヤをテーマにしたカテゴリーに加えられる。彼は、2020年サキールGPのメルセデスのオーディションで、間違ったタイヤを与えられた後、パンクしたのだ。タイヤブローではないが、1984年ブラジルGPのデレク・ワーウィックは、優勝まであと10周のところで、(それ以前のニキ・ラウダとの接触が原因と思われる)サスペンションが破損した。

当時は、ワーウィックのF1初優勝が延期されただけのように見えた。結局、これは1982年と1983年にタイトル争いをしたルノーチームでの彼のデビュー戦であり、当時の彼は後続に30秒以上の差をつけていたのだ。しかしこのルノーは二度とF1で優勝することはなく、ワーウィックも優勝しなかった。

10. タイミングの悪いジェスチャー

アンドレア・デ・チェザリス(アルファロメオ)
アンドレア・デ・チェザリス(アルファロメオ)

アルファロメオのアンドレア・デ・チェザリスは、1982年ロングビーチGPをポール・ポジションからスタートし、序盤は先頭を走っていた。しかし、マクラーレンのドライバー、ニキ・ラウダからのプレッシャーが強くなってきた。

15周目、デ・チェザリスは最下位のラウル・ボーセルのマーチに追いつき、バックストレートにあるタイトなシケインで周回遅れにしようとした。そのため、コーナーの抜け方が悪くなり、アタックされやすくなった。

イタリア人のデ・チェザリスは腹を立て、ボーセルに向かってこぶしを振り上げた。不運にも、その手はギアチェンジをする手だったので、シフトアップすることができなかった。つまりレブリミッターが作動し、一時的に加速が止まったため、すでに並びかけていたラウダに抜かれてしまったのだ。

デ・チェザリスがグランプリで勝つことはなかったが、3戦後のモナコで、ディディエ・ピローニからトップを奪いかけたが、終盤に燃料切れになってしまった。

また彼は、ベルギーGPの終盤、ギアボックス問題に悩まされていたアイルトン・セナを抜いて、ジョーダンにセンセーショナルな優勝をもたらすはずだったが、エンジンが故障した。

これは、オイル消費量を増やしたピストン仕様の変更が原因だったが、エンジン・サプライヤーのコスワースはこれについてチームに警告していなかった。


F1初優勝を逃すつらい10の方法
Part 1 | Part 2
-Source: The Race