F1グランプリで優勝を逃すのは、常につらいものだ。それがF1初優勝である場合は、さらにつらいものになる。

ランド・ノリスは、先週末のロシアGPでそれを経験した。
ノリスの慰めになるとすれば、彼と同じようなつらさを味わっても、F1初優勝を残酷にも否定されたあと、何度もレースに優勝し、さらにはワールドチャンピオンになったドライバーは大勢いる。
しかし、唯一のグランプリ優勝をあきらめなければならなかったドライバーもひとりいる。
1. エンジンブロー

デイモン・ヒル(ウィリアムズ)、リタイヤ:1993年F1イギリスGP
ミカ・ハッキネンは1997年へレスで初優勝を果たした。デイヴィッド・クルサードもジャック・ヴィルヌーヴも抵抗しないままハッキネンの追い抜きを許したので、ややむなしいものがあったが、ハッキネンはシーズン序盤に初優勝を逃していたので、許されるだろう。
ハッキネンとマクラーレン・メルセデスのパッケージは、1998年と1999年のタイトル獲得をもたらした絶好調に近づきつつあったが、1997年の夏はまだ信頼性に弱点が残っていた。
シルバーストンで、ハッキネンは先頭を走っていたが、残り7周でエンジンが故障し、ヴィルヌーヴのウィリアムズが優勝した。
2ヶ月後のニュルブルクリンクで、ハッキネンとクルサードは、圧倒的に強いマクラーレンで1-2を走っていたが、1周の間に2台ともエンジンが故障した。
ハッキネンが苦しむ4年前、シルバーストンではデイモン・ヒルとイギリスの観客が同じ苦しみを味わった。母国でのF1レース初優勝まであと18周のところで、ルノーのエンジンが爆発したのだった。ヒルにしては珍しく、レース後マシンを蹴る仕草を見せた。
当時、ヒルの後ろは、タイトル争いをしているウィリアムズのチームメイト、アラン・プロストが走っていたが、ヒルはスタートから首位を走り、母国レースであり、初優勝を目前にしていたので、ウィリアムズがチームオーダーを出さないのはほぼ確実だった。

リカルド・パトレーゼ(アロウズ):1978年F1南アフリカGP
リカルド・パトレーゼは、アロウズ・フォードの3戦目となる1978年南アフリカGPで、残り15周でエンジンが故障して初優勝を逃したが、その後(1982年モナコで)F1初優勝を果たした。
南アフリカGPは、アロウズが優勝を逃したグランプリのひとつだが、3年後のロングビーチでも、パトレーゼがウィリアムズを抑えていたが、エンジンがミスファイヤを起こした。パトレーゼはその後グランプリで優勝したが、アロウズは優勝しなかった。
エンジンブローのような見た目の派手さはないが、同じようにつらいミスファイヤのような故障の例としては、1986年オーストリアで先頭を走っていたベネトンBMWのゲルハルト・ベルガーのバッテリー切れがある。また、2019年バーレーンでシャルル・ルクレールはフェラーリ移籍後2戦目のレースの大半で先頭を走っていたが、電気系統の故障のため、3位に後退した。
2. 他のドライバーのエンジンブロー

キミ・ライコネン(マクラーレン)とミハエル・シューマッハ(フェラーリ)のバトル:2002年F1フランスGP
キミ・ライコネンは、2002年フランスGPで、珍しくミハエル・シューマッハを抑えて初優勝を目指していたが、終盤アラン・マクニッシュのトヨタのエンジンがまき散らしたオイルに乗って大きく膨らんでしまった。
シューマッハは十分離れていたので、状況を見極め、オイルの一部を避けることができたので、ライコネンのマクラーレンほど滑らず走行ラインを外れなかった。
シューマッハは、トラックに戻ろうとするライコネンの目の前を横切って先頭に立った。アデレード・ヘアピンでイエロー・フラッグが出ていたため、この行動はレース後に審議されたが、追い越しが行われたとき、ライコネンのマシンはコース外にあったので、シューマッハはペナルティを免れた。
マクラーレンは、この裁定に抗議しないことを決めた。なぜなら、この優勝により、シューマッハは当時のタイ記録となる5度目のワールドチャンピオンシップ優勝を決めており、マクラーレンは、その偉業とフェラーリの喜びを損なうのは不適切だと感じたからだった。
ライコネンは当時「おそらく人生で一番がっかりしたレース」と述べており、数年経っても「長い間、腹が立っていた」と認めている。
3. 燃料切れ

ステファン・ヨハンソン(フェラーリ):1985年F1サンマリノGP
ステファン・ヨハンソンは、1985年シーズンの2戦目、フェラーリを突然解雇されたルネ・アルヌーの後任としてティレルから移籍することになり、一生に一度のチャンスを与えられた。
イモラで開催されたサンマリノGPで、跳ね馬での2回目の出走をしたヨハンソンは、予選で15位だったにもかかわらず、ティフォシの前で初優勝を目前にしていた。
レース・ペースが速かったため、全ドライバーが燃料消費に苦しんだ。当時はF1のターボ時代で、燃料の使い過ぎが起きやすく、ヨハンソンも不正確な燃料計に悩まされた。
ロータスのアイルトン・セナが燃料切れを起こすと、ヨハンソンが首位に立った。しかし、その後、彼も燃料がなくなっため、マクラーレンのアラン・プロストが首位になった。ただし、プロストが失格したため、もう1台のロータスに乗るエリオ・デ・アンジェリスが最終的に優勝者となった。
4. バックマーカーによる追突

トップ走行のファン・パブロ・モントーヤ(ウィリアムズ)に乗り上げるヨス・フェルスタッペン(アロウズ):2001年F1ブラジルGP
ファン・パブロ・モントーヤがグランプリ3戦目(2001年ブラジルGP)でミハエル・シューマッハを押しのけて先頭に立ったのは有名だが、その後、レース初優勝を逃したのも有名だ。
レースの半分を過ぎたばかりのとき、彼は最終的に優勝するデイヴィッド・クルサードに5.5秒差をつけていた(雨はまだ降っていなかった)が、アロウズのドライバー、ヨス・フェルスタッペンが、デシダ・ド・ラゴ・ターンへの進入時に、モントーヤのウィリアムズに乗り上げた。
フェルスタッペンは、モントーヤをリタイヤさせたとして15,000ドル(166万5,750円*)の罰金を科せられたが、ウィリアムズが突然彼の前を横切りったこと、そしてブレーキが早すぎたと主張した。モントーヤは、ブレーキに関して逆だと感じた。
1978年ロングビーチでも、初優勝を目指していたジル・ヴィルヌーヴが、バックマーカーとぶつかって宙を飛んだ。この時は、首位のヴィルヌーヴがレースをコントロールするなか、クレイ・レガツォーニのエンサインの上に乗り上げた。
5. 議論を呼ぶ赤旗

アイルトン・セナ(トールマン):1984年F1モナコGP
タイミングの悪い赤旗を嘆くドライバーは大勢いるが、アイルトン・セナほど嘆いたドライバーはいないだろう。グランプリ5戦目(1984年モナコ)のスタートで、トールマンに乗るセナは、先頭を走るアラン・プロストのマクラーレンに急速に接近していたが、大雨のためレースが中断された。
プロストが32周目の半分を走ったところで、赤旗が出た。その4周前、セナとプロストの差は21.704秒だったが、32周目の差はわずか7.446秒だった。
レースのフィニッシュで、セナがプロストを猛スピードで追い越す有名な映像は誤解を招く。というのも、プロストはかなり前から減速していたからである。しかし接近の比率から、(赤旗が出なければ)あと数周あればセナはプロストを抜いていただろう。
チェッカーフラッグはミシェル・ボエリ**が振ったので、レースは正式に終了し、リスタートできなかった。つまりプロストが優勝した。しかしレースを続けていれば、セナが優勝した可能性が高い。ただし、彼がレース序盤に高い縁石を横切った時、サスペンションの損傷が、その後リタイヤを余儀なくされたかもしれない。
** ミシェル・ボエリはモナコ自動車クラブの幹部でFIA会長ジャン-マリー・バレストルの後任候補だったが、バーニー・エクレストンとマックス・モズレーとの権力闘争にバレストルが敗れたため、ボエリではなくモズレーがFIA会長になった。
エクレストンとモズレーがどのようにバレストルから権力を奪ったか詳細にバーニー本人が話している記事
このレースで初優勝の可能性を秘めていたのは、セナだけではなかった。よく指摘されることだが、ティレルのドライバー、ステファン・ベロフが、プロストとセナのふたりに追いつきつつあった。ただし、彼とセナの差は、レース最後の2周では14秒弱で安定していた。またベロフが優勝したとしても、ティレルはその後1984年シーズンから除外されたので、優勝を失うことになっただろう***。
もうひとり、初優勝の可能性があったナイジェル・マンセルもレースで先頭を走っていた。ロータスのドライバーは、10周先頭を走った後、滑りやすい白いペイントの線に乗り、16周目にクラッシュした。
*** 水タンク事件:アメリカ東GP(デトロイト)後の車検で、ティレルのマシン(ティレル 012)の水タンクから微量の炭化水素が検出された。これがエンジンの違法な出力アップに関係していたとして、シーズン終盤にレギュレーション違反との判定が下された。これによって、このシーズンのティレルチームと所属ドライバー、ステファン・ベロフとマーティン・ブランドル、ステファン・ヨハンソンの全ての記録・ポイントが剥奪された。
-Source: Wikipedia 日本語
F1初優勝を逃すつらい10の方法
Part 1 | Part 2
*日本時間2021年10月03日14:24 の為替レート:1ドル=111.050000円

ランド・ノリスは、先週末のロシアGPでそれを経験した。
ノリスの慰めになるとすれば、彼と同じようなつらさを味わっても、F1初優勝を残酷にも否定されたあと、何度もレースに優勝し、さらにはワールドチャンピオンになったドライバーは大勢いる。
しかし、唯一のグランプリ優勝をあきらめなければならなかったドライバーもひとりいる。
1. エンジンブロー

デイモン・ヒル(ウィリアムズ)、リタイヤ:1993年F1イギリスGP
ミカ・ハッキネンは1997年へレスで初優勝を果たした。デイヴィッド・クルサードもジャック・ヴィルヌーヴも抵抗しないままハッキネンの追い抜きを許したので、ややむなしいものがあったが、ハッキネンはシーズン序盤に初優勝を逃していたので、許されるだろう。
ハッキネンとマクラーレン・メルセデスのパッケージは、1998年と1999年のタイトル獲得をもたらした絶好調に近づきつつあったが、1997年の夏はまだ信頼性に弱点が残っていた。
シルバーストンで、ハッキネンは先頭を走っていたが、残り7周でエンジンが故障し、ヴィルヌーヴのウィリアムズが優勝した。
2ヶ月後のニュルブルクリンクで、ハッキネンとクルサードは、圧倒的に強いマクラーレンで1-2を走っていたが、1周の間に2台ともエンジンが故障した。
ハッキネンが苦しむ4年前、シルバーストンではデイモン・ヒルとイギリスの観客が同じ苦しみを味わった。母国でのF1レース初優勝まであと18周のところで、ルノーのエンジンが爆発したのだった。ヒルにしては珍しく、レース後マシンを蹴る仕草を見せた。
当時、ヒルの後ろは、タイトル争いをしているウィリアムズのチームメイト、アラン・プロストが走っていたが、ヒルはスタートから首位を走り、母国レースであり、初優勝を目前にしていたので、ウィリアムズがチームオーダーを出さないのはほぼ確実だった。

リカルド・パトレーゼ(アロウズ):1978年F1南アフリカGP
リカルド・パトレーゼは、アロウズ・フォードの3戦目となる1978年南アフリカGPで、残り15周でエンジンが故障して初優勝を逃したが、その後(1982年モナコで)F1初優勝を果たした。
南アフリカGPは、アロウズが優勝を逃したグランプリのひとつだが、3年後のロングビーチでも、パトレーゼがウィリアムズを抑えていたが、エンジンがミスファイヤを起こした。パトレーゼはその後グランプリで優勝したが、アロウズは優勝しなかった。
エンジンブローのような見た目の派手さはないが、同じようにつらいミスファイヤのような故障の例としては、1986年オーストリアで先頭を走っていたベネトンBMWのゲルハルト・ベルガーのバッテリー切れがある。また、2019年バーレーンでシャルル・ルクレールはフェラーリ移籍後2戦目のレースの大半で先頭を走っていたが、電気系統の故障のため、3位に後退した。
2. 他のドライバーのエンジンブロー

キミ・ライコネン(マクラーレン)とミハエル・シューマッハ(フェラーリ)のバトル:2002年F1フランスGP
キミ・ライコネンは、2002年フランスGPで、珍しくミハエル・シューマッハを抑えて初優勝を目指していたが、終盤アラン・マクニッシュのトヨタのエンジンがまき散らしたオイルに乗って大きく膨らんでしまった。
シューマッハは十分離れていたので、状況を見極め、オイルの一部を避けることができたので、ライコネンのマクラーレンほど滑らず走行ラインを外れなかった。
シューマッハは、トラックに戻ろうとするライコネンの目の前を横切って先頭に立った。アデレード・ヘアピンでイエロー・フラッグが出ていたため、この行動はレース後に審議されたが、追い越しが行われたとき、ライコネンのマシンはコース外にあったので、シューマッハはペナルティを免れた。
マクラーレンは、この裁定に抗議しないことを決めた。なぜなら、この優勝により、シューマッハは当時のタイ記録となる5度目のワールドチャンピオンシップ優勝を決めており、マクラーレンは、その偉業とフェラーリの喜びを損なうのは不適切だと感じたからだった。
ライコネンは当時「おそらく人生で一番がっかりしたレース」と述べており、数年経っても「長い間、腹が立っていた」と認めている。
3. 燃料切れ

ステファン・ヨハンソン(フェラーリ):1985年F1サンマリノGP
ステファン・ヨハンソンは、1985年シーズンの2戦目、フェラーリを突然解雇されたルネ・アルヌーの後任としてティレルから移籍することになり、一生に一度のチャンスを与えられた。
イモラで開催されたサンマリノGPで、跳ね馬での2回目の出走をしたヨハンソンは、予選で15位だったにもかかわらず、ティフォシの前で初優勝を目前にしていた。
レース・ペースが速かったため、全ドライバーが燃料消費に苦しんだ。当時はF1のターボ時代で、燃料の使い過ぎが起きやすく、ヨハンソンも不正確な燃料計に悩まされた。
ロータスのアイルトン・セナが燃料切れを起こすと、ヨハンソンが首位に立った。しかし、その後、彼も燃料がなくなっため、マクラーレンのアラン・プロストが首位になった。ただし、プロストが失格したため、もう1台のロータスに乗るエリオ・デ・アンジェリスが最終的に優勝者となった。
4. バックマーカーによる追突

トップ走行のファン・パブロ・モントーヤ(ウィリアムズ)に乗り上げるヨス・フェルスタッペン(アロウズ):2001年F1ブラジルGP
ファン・パブロ・モントーヤがグランプリ3戦目(2001年ブラジルGP)でミハエル・シューマッハを押しのけて先頭に立ったのは有名だが、その後、レース初優勝を逃したのも有名だ。
レースの半分を過ぎたばかりのとき、彼は最終的に優勝するデイヴィッド・クルサードに5.5秒差をつけていた(雨はまだ降っていなかった)が、アロウズのドライバー、ヨス・フェルスタッペンが、デシダ・ド・ラゴ・ターンへの進入時に、モントーヤのウィリアムズに乗り上げた。
フェルスタッペンは、モントーヤをリタイヤさせたとして15,000ドル(166万5,750円*)の罰金を科せられたが、ウィリアムズが突然彼の前を横切りったこと、そしてブレーキが早すぎたと主張した。モントーヤは、ブレーキに関して逆だと感じた。
1978年ロングビーチでも、初優勝を目指していたジル・ヴィルヌーヴが、バックマーカーとぶつかって宙を飛んだ。この時は、首位のヴィルヌーヴがレースをコントロールするなか、クレイ・レガツォーニのエンサインの上に乗り上げた。
5. 議論を呼ぶ赤旗

アイルトン・セナ(トールマン):1984年F1モナコGP
タイミングの悪い赤旗を嘆くドライバーは大勢いるが、アイルトン・セナほど嘆いたドライバーはいないだろう。グランプリ5戦目(1984年モナコ)のスタートで、トールマンに乗るセナは、先頭を走るアラン・プロストのマクラーレンに急速に接近していたが、大雨のためレースが中断された。
プロストが32周目の半分を走ったところで、赤旗が出た。その4周前、セナとプロストの差は21.704秒だったが、32周目の差はわずか7.446秒だった。
レースのフィニッシュで、セナがプロストを猛スピードで追い越す有名な映像は誤解を招く。というのも、プロストはかなり前から減速していたからである。しかし接近の比率から、(赤旗が出なければ)あと数周あればセナはプロストを抜いていただろう。
チェッカーフラッグはミシェル・ボエリ**が振ったので、レースは正式に終了し、リスタートできなかった。つまりプロストが優勝した。しかしレースを続けていれば、セナが優勝した可能性が高い。ただし、彼がレース序盤に高い縁石を横切った時、サスペンションの損傷が、その後リタイヤを余儀なくされたかもしれない。
** ミシェル・ボエリはモナコ自動車クラブの幹部でFIA会長ジャン-マリー・バレストルの後任候補だったが、バーニー・エクレストンとマックス・モズレーとの権力闘争にバレストルが敗れたため、ボエリではなくモズレーがFIA会長になった。
エクレストンとモズレーがどのようにバレストルから権力を奪ったか詳細にバーニー本人が話している記事
このレースで初優勝の可能性を秘めていたのは、セナだけではなかった。よく指摘されることだが、ティレルのドライバー、ステファン・ベロフが、プロストとセナのふたりに追いつきつつあった。ただし、彼とセナの差は、レース最後の2周では14秒弱で安定していた。またベロフが優勝したとしても、ティレルはその後1984年シーズンから除外されたので、優勝を失うことになっただろう***。
もうひとり、初優勝の可能性があったナイジェル・マンセルもレースで先頭を走っていた。ロータスのドライバーは、10周先頭を走った後、滑りやすい白いペイントの線に乗り、16周目にクラッシュした。
*** 水タンク事件:アメリカ東GP(デトロイト)後の車検で、ティレルのマシン(ティレル 012)の水タンクから微量の炭化水素が検出された。これがエンジンの違法な出力アップに関係していたとして、シーズン終盤にレギュレーション違反との判定が下された。これによって、このシーズンのティレルチームと所属ドライバー、ステファン・ベロフとマーティン・ブランドル、ステファン・ヨハンソンの全ての記録・ポイントが剥奪された。
-Source: Wikipedia 日本語
F1初優勝を逃すつらい10の方法
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*日本時間2021年10月03日14:24 の為替レート:1ドル=111.050000円
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