佐藤琢磨3位:2004年F1アメリカGP表彰台

アルファタウリの新人ドライバー角田裕毅は今シーズン、日本人として18人目のF1ドライバーになるが、他の日本人F1ドライバーはモータースポーツの頂点でどれほど活躍したのだろうか?

ここでは、ポイントを獲得した7人の日本人F1ドライバーの経歴と、歴史にその名を遺したレースを振り返る。

小林可夢偉 3位:2012年F1日本GP

小林可夢偉:出走75回 125ポイント

小林可夢偉の天性の才能を考えると、彼がスシ職人になるというプランBを選ばなくてよかった。2009年のGP2シリーズが期待外れに終わったので、小林可夢偉にとってF1は夢物語のように見えた。しかしトヨタは負傷したティモ・グロックの交代要員を必要としていた。

デビュー戦となったブラジルGP予選で、ブラウンのジェンソン・バトンに勝った小林可夢偉は、(闘争的なレース技術でバトンを驚かせて)レースで9位になり、アブダビのシーズン最終戦では6位になった。

強い印象を残した小林可夢偉は、トヨタが撤退したあとザウバーによって起用され、定期的にポイントを獲得し、速くて大胆不敵で、尊敬されるドライバーであることを証明した(セルジオ・ペレスに聞いてみるといい)。そして2012年の母国レースでは、おとぎ話のように3位になった。

その後、小林可夢偉は、窮地に陥ったケータハムと時を同じくしてF1を離れると、日本のシングルシーター・シリーズに1シーズン参戦し、ル・マンで活躍した。彼は角田裕毅が登場するまで、最後の日本人F1ドライバーだった。写真は2012年F1日本GPの表彰台に向かう小林可夢偉。

佐藤琢磨3位、ミハエル・シューマッハ優勝、ルーベンス・バリチェロ2位:2004年F1アメリカGP表彰台

佐藤琢磨:出走90回 44ポイント

佐藤琢磨のF1キャリアはあまりに早く終わりすぎたと考える人は多い。佐藤琢磨は2001年に日本人初のイギリスF3チャンピオンを獲得、さらにマカオでも優勝し、ホンダは翌年の2002年にジョーダンのジャンカルロ・フィジケラのチームメイトとして佐藤琢磨を起用した。

佐藤琢磨は、まずい時にまずい場所にいるという才能があり、特にオーストリアGPでは大クラッシュをするも負傷を免れた。しかし、2002年の母国レースでは5位になり、彼のF1初ポイント獲得に観客は歓喜した。

ハイドフェルドと佐藤琢磨のクラッシュ:2002F1年オーストリアGP


そして2003年、BARホンダにリザーブ・ドライバーとして移籍し、最終戦の母国レースに1年ぶりに出走すると6位となり、2004年の総合順位では見事8位になった。2004年はインディアナポリスでの表彰台に立ったほか、予選で3度トップ3に入った。2006年チームは彼にシートを与えなかったが、ホンダと鈴木亜久里は新チーム、スーパーアグリを立ち上げ、彼をF1に残留させた。この新チームで佐藤琢磨は、2007年カナダGPで見事6位入賞するなど、彼の活躍は目を見張るものがあった。

2008年にスーパーアグリが撤退すると、佐藤琢磨のF1キャリアも終わったが、大人気の彼は日本人として初めて伝統あるインディ500で優勝した、しかも2回(2017年、2020年)。

中嶋悟、日本人初のフルタイムF1ドライバー:1987年F1

中嶋悟:出走74回 16ポイント

遅れても何もしないよりはマシ。中嶋悟は、5年間日本のF2で活躍した後、34歳でやっとF1デビューを果たした。ホンダのサポートを受けた彼は、日本人として初めてのフルタイムF1ドライバーになった。ホンダが支援するウィリアムズが、ナイジェル・マンセルと彼を交代させることを拒否したため、ロータスからデビューすることになった。

しかし、これは中さん(Naka-san)にとって厳しい試練となった。1987年ロータスでの彼のチームメイトはアイルトン・セナだったのだ。セナはその年57ポイントを獲得したが、中嶋悟はわずか7ポイントしか獲得できなかった...

翌シーズン、ロータスのチームメイトはネルソン・ピケとなり、ピケの22ポイントに対し、中嶋はわずか1ポイントしか獲得できなかった。1989年はロータスにとって悲惨なシーズンだったが、中嶋悟は大雨の最終戦オーストラリアGPでファステストラップを記録し4位に入賞した。ただし、彼が「本当にF1ドライバーとしてふさわしいか」どうかに関する噂や不満が絶えなかった。

ティレルに移籍すると、その後数シーズンで5ポイントを獲得したが、1991年が彼の最後のF1シーズンとなった。そして彼の息子である中嶋一貴が引き継ぐことになる...

中嶋一貴:F1ドライバー

中嶋一貴:出走36回 9ポイント

中嶋悟の息子である中嶋一貴は、2007年から2009年までウィリアムズにエンジンを供給していたトヨタのサポートもあり、F1に2シーズン参戦した。

2007年、ウィリアムズのテスト・ドライバーを務めていた中嶋一貴は、同年のGP2シリーズで6回表彰台に立つなど、シリーズ5位になりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得して、才能を証明した。

2007年の最終戦ブラジルGPで、アレックス・ヴルツの代役でF1デビューを果たした。ピットストップで停止位置をオーバーランしてメカニックふたりを倒したが、10位でフィニッシュし、2008年はフルタイムのレースシートを獲得した。

2009年は無得点となり、トヨタがその年の終わりにF1撤退を決めたため、中嶋は別のシリーズに移らざるを得なかった。その後、彼は母国日本でスーパーフォーミュラ / フォーミュラニッポンで2度タイトル優勝し、ル・マン24時間レースで3回(そう、3回)優勝した。これは必ずしもF1で発揮されなかったとしても、大変な才能の証明である。

ミハエル・シューマッハと並んで写る片山右京、人気があり、トラック以外でも挑戦をした

片山右京:出走94回 5ポイント

片山右京はF1に6シーズン参戦し、予選を通過したのはわずか33戦だったが、それだけではこのエキサイティングなドライバー「カミカゼ・ウキョウ」を語ったことにはならない。

彼は1991年日本F3000でタイトル優勝を果たし、1992年にヴェンチュリー・ラルースF1チームに昇格した。このシーズン、彼はチームメイトのベルトラン・ガショーと何度か衝突し、1993年はヤマハエンジンのティレルで見事なパフォーマンスを見せることもあったが、ワールドチャンピオンシップ・ポイントはなかなか獲得できなかった。

1994年、ティレルで4戦を終えた段階で、片山右京はブラジルとサンマリノで自己ベストの5位となってポイントを獲得した(当時ポイントが付与されたのは6位まで)。

その後のF1結果は芳しくなかったが、片山右京は1995年ポルトガルGPのスタートでのひどいクラッシュを生き延びた。1994年には癌と診断されたが、1997年F1を引退するまでその診断を明らかにしなかった。

1995年F1ポルトガルGP クラッシュ


F1引退後も危険なチャレンジを好む片山右京は登山に転向し、50代後半の現在、七大陸最高峰のうちモンブランやデナリを含む6つを踏破している。写真はミハエル・シューマッハと並んで写る片山右京、人気があり登山以外でも色々な挑戦をしている。

中野信治:F1ドライバー

中野信治:出走33回 2ポイント

1990年イギリスのヴォクスホール・ロータス・チャンピオンシップで5位(デイヴィッド・クルサードのひとつ下)になった中野信治は、フォーミュラ・ニッポンでも成功し、参戦しなかった童夢F1を1996年にテストし、1997年無限ホンダのエンジンを搭載するプロストチームに、オリビエ・パニスのチームメイトとして起用された。

中野信治はデビュー・シーズンで何度もリタイヤして苦しんだが、カナダとハンガリーで6位入賞を果たした。

1998年、中野信治はミナルディに移籍したが無得点に終わり、最高位はカナダでの7位だった。

この年が中野信治にとって最後のF1シーズンになったが、1999年にジョーダンでテストを行い、米国に渡ってインディカーに参戦し、2005年から2016年まで、各種の国際耐久レースチームでレースをした。中野信治はF1より米国や耐久レースの参戦歴が長かった。

鈴木亜久里、日本人初のF1表彰台に上がる、それも母国GPで、優勝はネルソン・ピケ、2位はロベルト・モレノ:1990年F1日本GP

鈴木亜久里:出走63回 8ポイント

グランプリ表彰台に立った最初の日本人F1ドライバー、鈴木亜久里は、日本のツーリングカーおよび日本F3000で活躍し、1988年には日本F3000でタイトルを獲得した。同年の日本GPでラルースでF1デビューを果たし、20番スタートから16位でフィニッシュした。

しかし、ザクスピードでのフルタイムF1デビューは忘れてしまいたい1年となった。1989年、鈴木亜久里はこのシーズンの全16戦で予備予選落ちし、予選に出走できなかった(チームメイトのベルント・シュナイダーは14戦で予備予選落ち)。

日本のスポンサーのおかげで、鈴木亜久里は1990年もラルースから参戦し、イギリスとスペインでは見事に6位になった。しかし最高の成績を収めたのは母国レースの日本GPで、予選を10位で通過し、決勝は鈴鹿の大観衆の前で見事3位という素晴らしい走りで表彰台に駆け上がった。次に日本人がF1表彰台に上がるのは、14年後の2004年アメリカGPでの佐藤琢磨の3位表彰台まで待たなければならず、彼の3位がいかに驚異的かわかるだろう。

1992年フットワークに移籍するも振るわず、1994年はジョーダン、1995年はリジェでスポット参戦し、ドイツGPで最後のF1ポイントを獲得した。

鈴木亜久里のF1キャリアは、1995年鈴鹿の予選での恐ろしいクラッシュで終わりを告げたが、2006年シーズンにホンダが支援するスーパーアグリF1チームで彼は遺産を増やした。限られた予算しかなかったにもかかわらず、彼の弱小チームは、2007年スペインとカナダでのポイント・フィニッシュなど、記憶に残る活躍を見せた。その後、資金が尽きて2008年に撤退した。写真は1990年日本GPの表彰台でトレードマークの笑みを浮かべる鈴木亜久里。

-Source: The Official Formula 1 Website